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宇陀松山の象徴である、古い町家が並ぶ風景。
しかし、その造りひとつひとつにも個性があり、建てられた時代背景が色濃く反映されています。
のんびりと古い町並みの佇まいを眺め、思いに耽るのもいいものですが、
町家の造りを読んでその向こうを読む、「町の博物館」を楽しむのも宇陀松山の歩き方のひとつです。
町家ガイド 神社・寺・史跡等 特徴別町家ガイド
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松山地区の概要
保存地区の名称 宇陀市松山伝統的建造物保存地区
保存地区の面積 約17.0ヘクタール
保存地区の区域 宇陀市大宇陀区、万六、出新、上新、中新、上、上中、上本、上茶、下本、下中、下出口、小出口の全地域及び下茶、春日、拾生の各一部
条例制定 平成16年12月17日
重伝建選定告示 平成18年 7月5日
選定基準 (−)伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
種別 商町屋
保存物件数 建築物 128件、工作物 88件
環境物件 28件

大宇陀・松山地区について
2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された宇陀松山地区は、かつての大宇陀町である奈良県宇陀市の南西部に位置している、長い歴史を持った町です。
周囲を吉野山地、竜門山地、大和高原などの山々に囲まれた辺境の地ではありましたが、京都や奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝だったことから、古くから中央の影響を受けながら発達してきました。

日本の歴史に宇陀が登場するのはかなり早く、飛鳥時代まで遡ることになります。宇陀地域の山々は鳥獣が豊富だったために絶好の狩猟場として見いだされ、「阿騎野」という呼び名で日本書紀に登場しています。
また柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩猟の情景を詠んだ歌も阿騎野でのことと知られています。

交通の要衝となっていた宇陀地域が、町として形を成し始めるのは戦国時代、秋山庄の荘官から国人領主に成長した秋山氏が城を築き、その城下町として山腹に栄えたのが現在の松山の起源であると言われています。 その後、秋山氏は豊臣氏に追放され、秋山城には秀吉の弟、秀長の家臣が入り、この頃に城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の骨格が整えられました。この時に阿貴町から松山町に名前が変えられたと考えられています。 元和元年に城は壊されましたが、宇陀松山藩となってからは長山に藩屋敷を置き、織田信長の次男信雄(のぶかつ)が初代藩主となり4代にわたって松山藩を治めました。

やがて近代になると郡役所や裁判所ができ、政治の中心地として栄えたほか、県内初の乗り合いバスが走り、十数件の料理旅館がひしめいた時期があり、昭和の半ばまでその賑わいは続きました。それが宇陀松山の町並みです。

一時期に一気に繁栄した訳ではなく、色んな時代の影響を受けながら積み上がってきたために、家毎にそれぞれ異なる時代の特徴を持ち、町並みを眺め歩くだけでも町家の向こうの「時代」を垣間見ることが出来ます。
ただの古い町並みではない「日本の家屋建築の博物館」と言えるのが、この宇陀松山なのです。

 
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