紅葉が始まり、彩りある風景に誘われて外出の機会が増えたかと思います。今回は町家の表情を多様にする格子の近代以降の変遷について考えます。
近代になり、情報網が発達すると新しい技術や流行が全国に届くようになります。これが建築にも反映されるため、特定の時期に流行したものが全国各地で見られるようになりました。例えば、大正12年に完成した帝国ホテル(F・L・ライト設計)に使われたスクラッチ煉瓦を模したスクラッチスタイルが昭和初期から全国的に流行しました。現在も旅先でスクラッチスタイルを見かけることが多々あります。勿論、大宇陀でも写真1の町家の腰壁でスクラッチスタイルが使用されています。
この写真の中で、腰壁の上にある窓の外側に、竪子がはまっているのがわかるでしょうか。断面は長方形で面取りがしてあります。これを念頭に置きながら、次の写真2と比べます。こちらは福岡県八女市八女福島重要伝統的建築物保存地区で見つけたものです。大宇陀のものと同じようにタイル貼りの腰壁があり、竪子がはめられています。ここで注目したいのは、竪子の形と材料です。八女福島の竪子の断面は丸く、竹を使用しています。他に木製の竪子もありましたが、断面は丸でした。細かく見ると腰壁への納まり方も違います。
大宇陀の長方形断面の竪子と、八女福島の丸い断面の竪子。いずれも腰壁の上にはめられ、モノによってはベンガラや墨が塗られていますが、細かい部分での差違ー断面形状・材料・納まりーが「全国的な流行」に染まりきらなかった「地域性」と考えます。
腰壁と窓ガラスが町家の正面に加わり、格子も変化をとげました。大宇陀では従来の格子の形を持ちながら腰壁と窓を持つ町家も見られ(写真3)、次第に簡素化される様子がうかがえます。
全面開放の建具「スリアゲ戸」からゆるやかにウチとソトをつなぐ「格子」へと移行し、格子の形が多様化、「腰壁と竪子」が全国的に流行した後、格子を使う事例が戦後から激減します。腰壁と竪子の関係にわずかに見える地域性が非常に面白いと感じる半面、全国共通仕様の既製品が全国に出回り始めた時から建物の表情に地域の特徴が見えにくくなったのでは、と考えると寂しい気持ちになります。皆さんはどのように感じられるでしょうか?
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