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飛鳥時代から「阿騎野」と呼ばれる宮廷の狩場だった大宇陀に、
戦国時代「宇陀三将」と称された秋山氏が城を築き、
その麓に栄えた城下町が宇陀松山地区の始まりとされています。
以後、宇陀松山藩や天領時代など歴史のうねりの中で変遷を繰り返し、
それぞれ時代の影響を受けながら、今日のまちなみを形成してきました。
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大宇陀、まちなみの変遷。
城山と城下町
宇陀市大宇陀区は、飛鳥時代から「阿騎野」と呼ばれる宮廷の狩場でした。松山地区は戦国時代に「宇陀三将」と称された秋山氏の本拠地、秋山城の城下町として始まります。
天正13年(1585)に秋山氏が追放された後、豊臣家配下の大名によって城の大改修と城下町の拡大整備が行われ、町名も阿貴町から松山町へと変わりました。現在の松山地区は、このときの城下町の町割りを骨格としています。
城山に残る秋山城の石垣。破却されてから長く、城の名残を辿れるものは多くありません。
豊臣系家臣の時代に現在の町並みの骨格が整備され、西口関門もこのときに建立されました。
松山藩〜天領
元和元年(1615)に城が破却され、宇陀松山藩となってからは織田家の支配となりますが、元禄7年(1694)に国替えとなり、松山町は天領となります。交通の要衝であった松山町は「宇陀千軒」「松山千軒」と呼ばれ、江戸時代から活況を呈するようになってきます。
江戸時代後期の松山町(林桂造氏所蔵)
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近代の松山
近代に入ってからは明治時代に郡役所や裁判所が置かれるなど、松山地区は郡の政治・経済の中心地となります。料理旅館や商店が軒を連ね、昭和40年頃まで活発な経済活動が営まれていました。そして現代に至るまで各時代の歴史と文化が重層的に堆積し、きわめて貴重な文化遺産を継承してきました。
現代の町並み。時代に合わせ暮らしは変化していますが、町の風格はそのまま。
神楽岡神社から眺めた現在の町並み。
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